一九七三年に長沙馬王堆三号漢墓から出土した『五星占』を『甘氏占』や『石氏占』、『史記』天官書や『淮南子』天文訓、『漢書』天文志、『後漢書』天文志と比較したところ、ほぼ一致する内容の記録が見えることが判明した。このことから五感星に賦与された中国独自のイメージは漢代初期にすでに定着していたこと、また、『晉書』天文志とも大差ないことから、五惑星の担った役割は時代を越えてほぼ一定であったと断定できる。 『五星占』や『甘氏占』・『石氏占』には五惑星の吉占が生きている。しかしながら、『史記』以降の記録には五惑星の吉占が現実の事象と結び付く例は極めて少なく、五惑星がその特色を顕著に示すのは吉占ではなく凶占である。更に、五感星の観察記録は単独の運行記録よりも複数の惑星の接近・会合の記録がほとんどである。二つの惑星が接近する現象はその頻度が高いだけでなく、その組み合わせの多さからも、占いのバリエーションが一挙に増えるからでろうが、前漢高祖より六百年余を整理してみると、惑星の接近・会合が吉を占うのは一例のみで、二つ以上の惑星の接近・会合は内乱・飢饉・陰謀・旱魃・大喪・大敗・疾病等々、すべて凶事を予測させるものである。ただ、人格化していた五感星の中で擬人化が具体的な《予言者》として姿を見せるのは〓惑だけであった。しかし、それは五惑星による占星が社会批判・権力批判を任とすることが定着していたことによると考えられる。すなわち、権力の暴走に歯止めをかけた災異説が董仲舒の意を越えて災異の予占化の道をたどり、ついに圖讖の名のもとに権力の正当化に利用されるて本来の批判精神を骨抜きにされたが、五惑星の占星は古代の占星の姿を借りて最後まで災異説の精神を継承しようとしていたと考えられる。 極めて客観的な操作、天文観測という科学的行為は、不合理・非科学的の一語で一蹴されがちな「予言」を媒介に、実にストレートに現実の人間社会に機能していた。これが古代中国の天文学のもうひとつの意義であると言わねばならない。このことは、中国の神秘思想がいかに当時の社会において合理的であったかということの証しともなろう。
|