マトゥラーという都市は、豊かなガンジス川流域地帯の西の端に位置し、西アジア世界などへの窓口であった西北インドとの接点であったと共に、西方の文化圏への窓口であった幾つかの海港都市を有した西インド世界との接点であった。更に、この都市は、インド亜大陸の中央部や南インドへの繋がる通商路の北の要であり、そこから西北インド、北インド、東インドなどの他地域への重要な中継点であった。広大な地域の東部、西部、南部、北部に異なった文化が栄えた古代インド世界に於いて、この都市は、謂わば総ての世界への扉であったといえ、サカ=クシャン朝に至るまでに、マトゥラーは、インド亜大陸をカバーする総ての通商路のクロス・ロードとなり、それと共にその政治的・経済的重要性が増していったのであった。この政治的重要性の増大と通商の発展がマトゥラーにおける経済繁栄を可能ならしめたと考えられる。マトゥラー市とその周辺地域には、ジャイナ教、バラモン教、クリシュナ信仰、ナーガ信仰やヤクシャ・ヤクシニー信仰などのスポットが偏在し、「宗教の坩堝」的な環境が存在していたが、このような宗教的繁栄の背後には、シュレーシュティンと呼ばれた大商人の資産家たちやサールタヴァーハと呼ばれた隊商の長たちによる活発な経済活動が存在した。仏教碑文をはじめとするこの都市とその周辺地域から発見されている碑文には、「外套製造業者」「金細工師」「鍛冶屋」「材木商」等々の組合の存在がうたわれている。また、富裕な資産家がこのような組合にその資産を信託投資し、組合がその資産を運用して得られた利子配当をその資産者が関係する特定の宗教施設に寄付するというシステムが存在していたことが述べられており、この宗教都市を支えた経済繁栄の姿を垣間見ることが出来るが、より具体的に'マトゥラーの姿'を再構築するには、碑文資料や彫刻などの遺物資料の更なる発見が待ち望まれている。
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