研究概要 |
前年度に引き続いての研究の中で、とくにジャイナ教の祖師像にまつわる儀礼(rituals)の重要性に気づき、資料としてその方面の領域の論文等も加えて研究を行なった。とくに最近出版されたL.A.バブの研究書(Absent Lord,1996)は祖師像の表現上の「制約」の意味を考える上で有益である。一言でいえば、ジナの身体表現に与えられた制限は、一方では儀礼による象徴性の拡大に寄与し、豊かな意味世界を創出したといえる。そうした象徴性の拡大がジナ像をM.J.バンクスのいう「可変的な諸形態のスペクトル」たらしめたものであろう。〈聖なる集い〉(samavasarana〉は古代マトゥラーの奉献板に端を発し、四方にジナを向けた四面像の原理とその形態を取り込みながら発達して行ったと思われるが、そのプロセスの中にも固定的な身体表現と儀礼による象徴性の拡大というパターンが看取される。 造像のレベルでの制限によって、ジャイナ教はまた古代の牟尼(muni)の超俗性も保ち得たといえる。これはバンクスの示した教義の一貫性、安定性にもつながる。寡黙な(abahu-vai)牟尼は自ら語らず、問われて(pucchio)初めて発語のチャンスを得る。また不可視の神秘的な存在(jakkha)を身に帯び、それによって〈聖性〉を守護されている。こうした牟尼の理想を造形的に表現し、その伝統を保ちながら、一方でマンダラ的な象徴性を高め、仏教のストゥーパにも匹敵する豊かなシンボリズムを開花させたのがほかならぬ〈聖なる集い〉の図像であったと思われる。ただし中心の頂きにいるジナは、ジャイナ教のパンテオンの最上位に君臨し、救済主を装いながらも、実は「霊魂(jiva)の物語」の到達点を示しているに過ぎない。瞑想するジナは、その制限された図像化のゆえに、救う者と救われる者という関係の不成立を端的に示している。
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