中心にジナ像が置かれるジャイナ教の諸種の図象のなかで、最も一般的な五尊形態のsamavasaranaは、P.Palの述べるように、基本的は仏教のマンダラやヒンドゥーのヤントラとなんら異なるものではない。しかし円形であれ、方形であれ、そのダイアグラムには歴史的な発展の跡が認められる。おそらく古代マトゥラーの奉献板(a^^-)ya^^-gapata)に端を発し、四面像(caturmukha)の原理などを取り入れながら、次第に五尊の形態へと発展して行ったものと思われる。祖師像に見られる抑制された身体表現は、ジャイナ教の図像の最大の特徴である。坐像にはわずかながら地域差が認めれるが、ジナを瞑想形でのみ表すことは歴史的に一貫している。しかし、興味深いのは、瞑想するジナがときに「説法」も行うという点である。たとえば、ジナ像の台座に法論(dharmacakra)がが付される場合、法論の機能も併せ持たされていることは明らかであろう。またジナ像の安置式などの儀礼においては、ジナが瞑想しているのは単に表面上のことに過ぎないとさえいえる。この場合、ジナの小さなレプリカが用いられ、受胎、誕生、出家、悟り、入滅の五大慶事(pan^^〜ca maha^^-kalya^^-naka)が順次戯曲的に演じられる。もちろんジナの説法はこのうち悟りの慶事に際して示される。このようにジャイナ教徒は、ジナの身体を抑制的に表現するかわりに、文献や儀礼のなかでジナの一生を記述し、また再現してきた。すなわち、抑制的に表現された図像上のジナは、M.J.Banksの述べるように、「霊魂(ji^^-va)の物語」の到達点を示すことともに、さまざまな身体的状況を内包した「諸形態のスペクトル」なのである。Samavasaranaの最も発達した形態の中にさえ、神秘的なヤクシャの庇護を受ける古代の牟尼(muni)の姿がよく保持されている。理想の牟尼(=ジナ)は、ジャイナ教のパンテオンの中央に位置し、そのヒエラルキー頂点に君臨しているにもかかわらず、なお「救済主」たることを頑なに拒否する。ここで救う者と救われる者という関係の不成立を端的に示すのが、ほかならぬジナの瞑想する姿である。図像に見られる表現上の一貫性は、Banksも示唆するように、おそらくはジャイナ教の思想史的、教団史的な一貫性、持続性などとも関連しよう。今後、さまざまな印相や姿勢で表される仏教やヒンドゥーの像とも比較しながら、ジャイナ教における身体表現の抑制、図像の自立性の意味をさらに検討して行きたいと考える。
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