1、土御門家配下の陰陽師・万歳師の資料の閲覧・複写をため、安城市立歴史博物館、知多市民俗資料館、京都府立資料館、奈良県立図書館、高知県立図書館、高知県歴史民俗博物館、国立歴史民俗博物館、小田原市立図書館を訪問し、関係の史料・文献を閲覧し、近世陰陽道の理解を深めることができた。 2、中世末の声聞師と近世の陰陽師との連続性を強調する説があるが、その説は史料的な裏づけに欠けている。私は『土御門家記録一』から慶長六(1601)年以降の天曹地府祭奉仕の具官の出身地を検討し、摂津・河内の淀川河川敷の村の民衆が具官となったことを解明した。近世の土御門家がまず支配を始めたのは、これらの村人であった。奈良の陰陽師は、声聞師の系統ではなく、幸徳井家と関係する暦師の集団であったこともわかった。 3、近世の三河万歳の成立・展開について。近世初頭から三河万歳集団が関東で活動していたことが推測されるが、貞亨元(1684)年に寺社奉行の指導によって土御門家江戸役所の支配下になるが、家康以来の由緒を掲げ、江戸役所に対して自立的な存在であったのが、他の芸能者との争論を繰り返す中で、訴訟の仲介者である江戸役所への従属性が宝暦年間ぐらいから強まっていく。 4、関東の舞々などの芸能者集団の拠点は、十六世紀に後北条氏の庇護のもとに小田原に形成されるが、近世には分散し、その1つの流れが相模国の神事舞太夫となったこと、そして元禄年間に相模国の芸能者に土御門家の影響が強まったことを明らかにした。近世の神楽集団では、営業のナワバリをめぐって紛争が頻発し、そのために訴訟で有利であることを期待して上位の本所を求める傾向があることが、土御門家や吉田家の支配を受容した社会的な要因であったことを指摘した。
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