1、 土御門家配下の陰陽師・万歳師の史料の閲覧・複写をため、神奈川県立図書館、京都府立資料館、伊勢神宮文庫、小坂井町教育委員会、西尾市図書館、竹野町教育委員会を訪問し、関係の史料・文献を閲覧することができた。以下、解明した点を列挙する。 2、 三河万歳、大神楽の展開史については、小坂井町の大林家文書から、慶長年間以降に西三河の万歳師が小坂井村、宿村に集まり、住み始めたこと、徳川家との特別な関係を主張しながら、関東で万歳の営業を展開させたが、それが限界になった時期に、土御門家配下になったことを明らかにした。また大神楽師は、江戸の伊勢方の支配を受けていたのが文化年間以降、土御門家配下となったこと、宿村は西三河の大神楽師の拠点であったことを明らかにした。そもそも伊勢方は、地方の芸能者を支配する体制を備えていたが、熱田方は、江戸の仲間による合議的組織であったことが、調査の過程で明らかになった。 3、 相模国の神事舞太夫の展開史を二つの論文にまとめた。それによると、相模国の神事舞太夫には、小田原グループ、六所明神グループ、萩原家グループが併存し、時には祭礼の神事芸能の権利をめぐって抗争があったことを明らかにし、土御門家配下の萩原家グループが、訴訟を通じて勢力を拡大し、神事舞太夫の取締出役になったことを指摘した。 4、 奈良、伊勢の暦師が、土御門家配下であったことは、すでに研究されていることであるが、具体的な支配系列の確立、またその時期については、未開拓の分野である。奈良の吉川家文書の検討を通じて、元禄年間以降、土御門家の支配が始まり、奈良の暦師と大和国の陰陽師とを二分して、二重の支配の体制であったことがわかった。この点はさらに実証的につめる必要がある。伊勢の暦師の支配については、宝暦年間が画期であり、幕府による宝暦改暦が、土御門家の伊勢への介入を容易にしたと思われる。
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