研究成果の概要は、以下の通りである。 (1)近世の陰陽道の画期とされている土御門泰福の時代の土御門家の活動をできるだけ史料にそくして解明しようとした。とくに土御門泰福と垂加神道との関係、貞享暦をめぐっての土御門家と渋川春海との関係をとりあげ、関係史料の収集につとめた。東京天文台所蔵のマイクロフィルム資料、立教大学図書館・高知県立図書館所蔵の谷泰山関係史料、京都府立史料館所蔵若杉家文書、神宮文庫所蔵の渋川の著作、『兼輝公記』などの公家の日記類を調査し、幕府側と朝廷側の双方からの改暦にたいする対応、土御門家の動向などの把握につとめた。和田光俊氏を研究協力者に迎え、渋川に関する情報を交換し、「渋川春海年譜」を作成することができた。土御門家が提唱した安家神道は、山崎闇斎、渋川との交流の中で形成されて、渋川を介して仙台藩、会津藩の暦学者に及んだことを推定することができた。 (2)3年間をかけて地方陰陽師についての史料を収集した。埼玉県、東京都、神奈川県、愛知県、兵庫県の自治体史の編さん室や資料館をまわり、史料を閲覧し、できるだけ多くの史料の複写を行った。研究成果報告書に掲載してある論文は、そうした作業の中で書かれたものである。そのなかで明らかにあった点は、(1)土御門家の地方陰陽師の支配が、画一的な編成であるにもかかわらず、配下の陰陽師の社会的形成は、多様なものであること、(2)貞享年間以降の土御門家の陰陽師支配は、スムーズには進行せずに、他の系列の宗教者・芸能者とのナワバリをめぐる争論をくり返し、内部的にも矛盾と利害の対立をかかえていたこと、(3)寛政三年の触れ以降、土御門家は、地方に取締役を派遣し、地方触頭の中間搾取を禁じ、他の系列の宗教者を取り込みにつとめたが、組織内部の摩擦は激しかったこと、(4)幕末には触頭制が動揺し、土御門家の一元的支配が強化されたこと、などであった。
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