本年度は、九州大学や東北大学および国会図書館で、ミケランジェロや夏目漱石にする関連図書を検討し、以下のような知見を得た。ミケランジェロは、明治13年の『臥遊席珍』で日本に紹介されはじめ、それから尾崎紅葉の『むき卵』でミケランジェロの詩が語られる。ル-ヴル美術館でミケランジェロの《瀕死の奴隷》を素描した黒田清輝は帰朝後、ミケランジェロの《ダヴィデ》を思わせる若者を油彩画《昔語り》に描いた。さらに黒田は《朝妝》で裸体画論争を引き起こし、明治34年には大塚保治が「裸体と美術」という講演において、ミケランジェロの《最後の審判》の裸体画論争についてくわしく語った。そのすこし前、ロンドンで裸体画について調査した漱石は、手紙でその事情を大塚保治に知らせたようである。帰朝した夏目漱石は明治38年に『吾輩は猫である』において、ミケランジェロの《最後の審判》の地獄の裸体群像を想起させる風呂場の裸体群について語り、裸体画流行を軽薄な西洋崇拝として揶揄したが、その批判の語り口はきわめてダンテ的・ミケランジェロ的である。ダンテの『神曲』を模倣したと思われる漱石の『草枕』で主人公の画工は、自分は技においてミケランジェロに劣るが人格において豪も遜らぬ第一流の大画家である、と言う。このとき漱石は、ダンテとミケランジェロの芸術が同じ根に由来していることを理解していたようである。漱石がそのようにダンテとミケランジェロをむすびつける典拠は、ウォルター・ペイタ-の『ルネサンス』であったにちがいない。 以上の研究成果のうち漱石の中に現れるミケランジェロについては、1998年3月の『大阪府立大学紀要』の「漱石の『吾輩は猫である』とミケランジェロ」、同年同月の『大阪府立大学人文学論集』の「漱石の『草枕』におけるミケランジェロ」に発表した。
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