明治時代の文明開化は必然的に西洋美術の受容を促した。明治9年の工部美術学校開設でイタリアの画家フォンタネージはミケランジェロを紹介するとともに、デッサン実習のためにウフィツィ美術館所蔵の<踊る牧伸>石膏槙造を輸入させる。フンタネージの学生高橋源吉は、最初の美術雑誌『臥遊席珍』を出版し、ルイジ・ランツィの『イタリア美術史』からミケランジェロ略伝を抄訳し紹介した。ここでコンディヴィやヴァザーリのミケランジェロ観が初めて現れる。次に原田直次郎が明治21年に『絵画雑誌』第13号で「性質清廉淡泊ニシテ且ツ倹素ヲと尊」ぶミケランジェロは「富ヲ欲スルモハ其心ニ足リシトセザル中ハ貧人タルヲ免レズ」と言ったと紹介し、明治23年に『日本絵画ノ未来』で原田の絵を批判した外山正一は、質素を貴んだ西郷隆盛をミケランジェロに比し「荘厳ナル思想」の必要性を説いた。外山の論理は原田のミケランジェロ紹介と明治22年の岡倉覚三による『国華』掲載の「狩野芳崖」でのミケランジェロ論の寄せ集めであるが、西郷はミケランジェロと比されて、明治31年に高村光雲が上野公園に設置した<西郷隆盛象>にミケランジェロの<ダヴィデ>のブロンズ模造を想起させる理由を明かす。それはフィレンツェの訪問者岡倉覚三の提案だったかも知れない。かくてミケランジェロと西郷は救済者として国体的な政治性を帯びだした。東京美術学校から岡倉を追放した黒田清輝は久米桂一郎とともに裸体画の普及を始めたが、その論理に富国強兵と大陸侵略思想を感知した夏目漱石は『我輩は猫である』でミケランジェロの<最後の審判>の裸体画をもじり、裸体画を辛辣に批判した。漱石は友人の美学者大塚保治の感化や、ペイターやシモンズのミケランジェロ論を通じて一挙にミケランジェロ理解者になり、救済論的な芸術論を小説で普及した。『草枕』に露骨な漱石の芸術論は明治末から大正に『白樺』運動を導くことになった。
|