社会学者で戦後日本のオピニオンリーダーの一人であった清水幾太郎(1907-1989)は、三冊の自伝を残している。 最初の自伝は42歳のとき(1949)に書かれた。通常の感覚からすれば、自伝を書くには若すぎる年齢である。しかし彼はそのとき人生の転機に立っていた。過去を振り返ることは、過去を懐かしむためではなく、ライフコースの方向転換(フリーのジャーナリストから大学教授兼平和運動家へ)のために必要なことだった。 二番目の自伝は48歳のとき(1956)に書かれた。最初の自伝からわずか6年後である。しかし二番目の自伝は最初の自伝のたんなる焼き直しではなかった。最初の自伝は学校と職業すなわち人生の公的領域の物語であったのに対して、二番目の自伝は家族すなわち人生の私的領域の物語に重点が置かれている。2冊の自伝は相互補完的な関係にあり、両者を併せて1冊の自伝と見ることができる。ただし、両者を隔てる6年の歳月(具体的には平和運動の渦中で経験した孤独感)は物語の内容に微妙な変化を与えている。 三番目の自伝は67歳のとき(1975)書かれた。二番目の自伝から20年が経過していた。かつての進歩的文化人は保守の論客に変貌しようとしていた。当然、三番目の自伝には前の二冊の自伝には含まれていなかった40代以降の出来事が含まれている。と同時に、すでに前の二冊の自伝で語られた出来事も含まれている。後者を反復して語るとき、そこには細部へこだわりと劇化(dramatization)の抑制がみてとれる。また、旧い出来事を語りつつ現代の社会問題に積極的に言及しようとする姿勢もみてとれる。三番目の自伝は自伝の形式を借りた社会評論でもある。
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