1985年のプラザ合意後の円高体制のもとで国際競争力を維持するために生産コストの削減を追求する日本の大手企業は、1990年代に東アジア諸国、とくに中国において生産拠点を拡大した。調査対象とした情報機器大手メーカーのエプソン社も、1995年に上海市と蘇州市に工場を開設した。蘇州市では先進国の企業の進出に伴い、伝統的な繊維産業から電機・情報機器の先端産業への産業構造の転換が進み、これに伴い雇用・失業問題が生じている。上海市では賃金上昇のために低賃金労働力を利用するメリットが薄れており、郊外の農村部への工場移転やより低賃金な派遣労働者の利用などの対策が広まっている。さらに日本国内との分業体制の変化もみられる。中国の事業所は大量生産工場と位置づけられているが、同時に生産合理化のための製造技術の移転が行われている。さらに今後は設計や製品開発技術の移転も日程に上るであろう。これらの動向は大連市の経済技術開発区に立地した日系企業においても同様に確認された。 以上の大手企業の海外事業展開は国内の関連企業に以下の変化をもたらしている。一方では、大手企業とともに海外進出を実行する企業。他方では、国内に残り新たな事業展開を計る企業。すなわち、独自技術の開発、大手企業の試作段階への参入、製品と取引先の多角化、よりいっそうの生産コストの削減を追求する企業などである。 さらに大手企業の海外事業展開は、不況の長期化とあいまって地域経済に深刻な影響を与える。農村における中小企業の集積地として名高い長野県坂城町では工場数が最盛期の1991年の375から2000年の313まで激減している。しかもこの減少数のうち約4分の3は従業員10人未満の零細企業が廃業したためである。経済のグローバル化は地域の小企業の熾烈な淘汰を生んでいる。これと関連して、小企業の3分の1から4分の1は、今日の急速な情報技術革新の波からも取り残されている。
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