研究概要 |
Fr.フレーベルの「ヘルバ・プラン」の全容解明のため,チューリンゲン州立アルヒ-フ所有の未刊行資料23点等の収集並びにその解読をおこない,さらに関係文献の調査から「ヘルバ・プラン」構想の形成過程を以下の時期に区分し,その全体構想を明らかにした。 (1)マイニンゲン公との直接交渉期(1827年12月〜28年4月),(2)当局の審査期(1828年5月〜28年5月),(3)仮協定の締結期(1828年10月〜29年3月),(4)プランの挫折期(1829年3月〜29年5月)に区分。 その結果,従来のランゲ版資料では不明であった「ヘルバ・プラン」の挫折の原因は,フレーベルをマイニンゲン宗務局との「仮協定の補足」に基づく生徒募集に関する検閲をフレーベルが事前に受けていなかった点から,宗務局の不信を買い(あるいはそれを口実にして),仮協定補足の第5項目に違反するものとされ、ヘルバ・プラン(国民教育施設構想)が頓挫したことが明らかとなった。 なお,ヘルバ・プランに見られる国民教育施設の全体構想はその付設機関として「養育と発達の施設(3歳から6歳までの有産階層の孤児)を含み,本体は出身階層に関わりなく,7歳から12歳(「仮協定の補足において17歳まで引き上げられた)の少年少女を対象とするものであった。修了後の生徒は、次の4つの進路が考えられた。(1)実社会に出,家政や家内職に従事,(2)技術学校,(3)ギムナジウム(カイルハウの一般ドイツ教育舎),(4)自己陶治のための施設や大学。
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