研究概要 |
1,本年は問題の全体像をとらえる基礎作業をした。対象期からいうと、(a)帝政期と内戦期という1910年代末までに集中した。なお今日的視点を明確にするため、計画的になかった(b)ベレストロイカ期以降も視野にいれた。 2,(a)については、中央(モスクワ)における保育政策論議の追跡を前提に、そこではとらえられない地方の実態に追った。つまりヴャ-トカ県の帝政期と内戦期の出生率と育児支援策の動向を、公文書館と地方雑誌・新聞などの一次資料を用いて分析した。その結果、イ)帝政期の多産多死構造を引きついだ県は、内戦期にはいり、中央の政策を反映して就学前課が県・郡レベルにでき、施設が急増した、ロ)設備・備品・教材、保育内容・方法、保育者養成という保育の内実を規定する要因は状況に対応するのに精一杯だった、ハ)緊急的対策が常態化していく傾向が芽生えた、という点を明らかにした。関連して、フレーベルとモンテッソ-リの保育思想がロシア保育界に与えた影響をはかるため、両者に関するロシア語文献のリストを作成し、解題を付して英文で発表した。 3,(b)については、ソ連崩壊が乳幼児の出生と育児に与えた、与えつつある影響を1996の現地調査にもとづき考察した。大都市の事例としてサンクトペテルブルク市を、地方都市のそれとしてキ-ロフ(旧ヴャ-トカ)市を対象に、保育施設の見学・調査・親・保育者・行政関係者へのインタビューなどをもとに分析した。その結果、イ)施設設置主体に私人を認め、保育プログラムの選択権を施設と保育者に与えるという自由化・多様化は、保育の脱国家化、国家教育からの解放を意味する。それは、市場経済原理に保育システムを委ね、政府の保育責任を軽減し、それを個人や個々の施設に転嫁することでもある、ロ)自由化・多様化の成果は明確になっていない一方既存の育児支援策の解体は家庭と保育施設を直撃している。乳幼児の養育・保育を支える環境は多くの国民にとって悪化しがちであり、それは出生率の急減と乳児死亡率の上昇となって表れている、ということを指摘した。 4,まとめていえば本年は、2つの体制転換の前後の時期における出生率と育児支援策の関係について、その全体像を地域・地方に注目して把握した。なおそれ以外に、ロシアの労働学校に関する新見解を示す著書を共記した。
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