本研究では、まず、「発達保障論」誕生の基層を、近江学園の1950年代後半の実践に即した理論的模索の中に求めた。ここでは、(1)学園設立の基本理念である「社会との直結」の観点が、児童の「重度化」に対応した試みである集団就職の失敗により転換を余儀なくされていたこと、(2)指導技術論として、「枠づくり」指導の行動主義的一面化の克服、(3)社会的自立論を自律という観点から捉え返し、「内面的適応」を実践の中心的課題に据えたこと、(4)当時の民間教育研究運動の影響を受け、とりわけ「集団(編成)」や「集団的指導(体制)」に強い関心が向けられていたことが、重要な要因として抽出された。これらの要因を背景に、直接的には中堅職員を中心とする(この時期、学園の担い手の明らかな変化が認められる)「土曜会」(60年1-3月)での班制度下の実践の反省の上に、「発達保障論」の誕生があった。ただ、その強調点は、もっとも実践に連接する子どもの見方と集団編成原理におかれ、総体として、発達理論研究への依存を強める結果となった。 「発達保障論」の実践枠組は、60年代前半(とくに63年度頃まで)に、子どもの発達段階を意識した実践として一応の定型をつくる。内面への視線が、発達理論に還元される傾向を強めたといえる。しかし、60年代中頃より、発達の高次化に対し「よこへの発達」という視点が、また、実践的にも集団編成の混合性・異質性が注目され、発達の視点が質的に問い返される。この視点の深化とその帰結については、引き続き検討したい。
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