1、 西川鯉三郎に至る西川流の歴史について以下のことが判明した。初代は元禄時代に舞踊の才能を発揮した西川扇蔵下であり、四代目扇蔵は振付の名人下であったが、その門弟のひとりが名古屋西川流の初代鯉三郎となった。(天保12年)その門弟のうち織田第と養女西川嘉義・西川石松の両派の争いとなったが、嘉義・石松の病気や死、石松の子花子の早世により、花子の遺児静子(西川司津)が六代目尾上菊五郎の門弟尾上志げると結婚、昭和15年に志げるが二代目家元西川鯉三郎を襲名した。昭和58年の没後は、名古屋は長男に西川右近が継ぎ、東京は長女左近が鯉鳳派を立てた。 2、 西川流舞踊の特色として次のことが判明した。二代目鯉三郎は歌舞伎出身であったことから、その踊りは芸居適表現に富むものであり、ストーリー性のある新作舞踊が次々と生まれている。それに江戸前の粋さと現代風なリアルさが加味され、ひとつひとつの振りそのものにスッキリとした味わいが感じられる。そうした芸風が舞踊界でも唯一の興行的な催しである「名古屋をどり」を結実し、それは昭和20年から今日に至るまでひき継がれて舞踊の大変化に貢献するものとなった。鯉三郎の名人芸の影響は門弟のみならず、名流舞踊家や花柳昇・演劇界にも広く及んでいる。 3、 日本の伝統文化の教育方法の典型をまさに西川鯉三郎の芸道教育にみることができる点が明らかとなった。そこには現代の上からの「教え込み型」の教育、すなわち言語による理論的な教育法ではなく、伝統的な「浸み込み型」教育とでもいうべく、師の芸を示して弟子に身体的に習得させるという経験主義的な教育法がみられる。それこそが日本古来の伝統文化の中から生まれたところの日本人の特色に適った教育法であり、その今日的再検討が望まれる。鯉三郎の教えもつまるところ、言葉を以て伝えることのできない「間」や「呼吸」を教えるものであり、そこに日本の伝統文化継承の特異性があると思われるのである。
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