今年度は、主に明治初期の家族法関係資料や家庭教育に関する文献の収集に力を入れた。そうした作業を行う中で、離婚の際に父と母のどちらが子供を引き取るかという問題が、実は明治以降の親子関係の制度史にとって重要な問題であることを認識し、この点に関する分析を進めた。明治初年以降、親子関係は他の人同閑係とは異なる特別な関係とみなされ、親(父)の子供に対する独占的・排他的な権限が確立していく。このことは母の地位にも変化をもたらす。母もまた親としての特別な権限を持つと考えられるようになるからである。そして、母に父と同様の親としての地位が認められるようになるにしたがって、改めて父と母の地位の争いが生じる。その端的な現象が、離婚に際しての子の帰属という問題である。 江戸時代、幕府法では父がすべての子を引き取るものとされていたが、実際の庶民の慣習では、父は男児、母は女児を引き取る場合が多かったとされる。明治初年の政府の指令では、基本的に惣領の子は父が引き取るが、それ以外は協議で決めるものとした。惣領の確保が、家=父にとって譲れないものだったのである。 だが、こうした性別や惣領かどうかとは異なる視点が明治20年代になると登場する。それが「子の利益」論である。「子の利益」を制度化したものが離婚の際の裁判所の関与であり、母による子の「監護」権である。明治民法は、離婚後も父に親権を与えることによって、父の優位=家父長制を維持するとともに、監護権を親権と区分することによって、協議が成立すれば、母が長男をも引き取ることを可能にした。つまり、明治民法の監護権は、家父長制の内部において、母が子ども(特に乳幼児)を養育することが子どもの利益であるという〈母性〉をはじめて制度化したものと言えるだろう。
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