本研究では、現在教育改革の柱として進められている「教育の市場化」が、どのような言説によって正当化されているのか、その理論的検討をおこなった。折しも、教育の市場化についての議論はイギリスの教育社会学者が、我が国と同様の論争を繰り広げている。この両国の議論は偶然の一致ではなく、世界各国が、同時平行的に「教育の市場化」という価値に向かって進んでいるということを意味している。市場化言説は、経済における規制緩和、市場開放論の背景理論となっているハイエク主義やフリードマンの『選択の自由』を信奉する経済学者たちの政策提言にその源泉をもっている。 しかしながら、市場化論に対して、それが富の不平等と教育格差を生むという理由で、反市場化言説を唱える教育学者は少なくない。日英両国の反市場化言説を市場化論と比較検討してみると、奇妙なことに、反市場化論が極めてロジカルで説得力をもっているにもかかわらず、なぜか、市場化論に比べて政策としての魅力に乏しいことがわかる。これは、論理と論理の精緻さの比較では解決できない、ある種の「言説の聖性」ともいえる効果が働いていることがわかる。本研究では、これを「言説とユートピア概念」という観点から検討した。ユートピア概念には、マンフォードのいう「建設のユートピア」と「逃避のユートピア」があるが、とくに前者のもつ効果に着目した。そこから得られた結論は、言説とはユートピア提示の形式を取った場合、その聖性が高まり、政策もしくは世論への影響力が大きくなる、というものだった。したがって、市場化言説がこれほどにも世界の政治、政策を左右している理由の一つには、このユートピアとしての言説提示という効果が働いていると考えられる。したがって、日英の市場化議論の決着は、すでに言説の効果という限で、市場化論がヘゲモニーをもっていると結論できる。
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