研究概要 |
現在では和牛は農村から姿を消しているが,昭和40年代半ばまでは,農耕に不可欠の存在であり,どの家にも飼われていた。特に中国地方は,全国的にも和牛飼育の盛んな地域であり,和牛をめぐる多くの独特の民俗が形成されてきた。 中でも中国山地は,特に和牛の生産意欲が高く,1戸当飼育頭数においても高い数値を示している。そのため,中国山地帯には数多くの牛市場が設けられていた。このように中国山地において飼育頭数が多いのは,この地方でマキバと呼んでいる放牧によって牛が飼われてきたことに起因する。中国山地ではかって至る所に鑪が存在していたが,鑪が利用してきた炭山は広大な草地を残し,それがマキバとして利用されてきたものである。また放牧された牛は,足腰が丈夫で性格も温順という評価を受けて,農耕用の牛として重宝されてきた。 牛市場において牛の取引に携わってきたのは博労と呼ばれる人たちであるが,彼らは農村いおいても牛の売買や交換を行っていた。それをツボカイと称し,彼らの得意先はマヤサキと呼ばれた。クラシタというのは,田起こし期に限定して牛を借り入れる慣行であるが,高地冷涼地と平野部では田植え期が1ヶ月ずれていたことを利用して賃貸しが行われていた。これを1例として,牛を媒介に山間部と平野部との間に広域的なネットワークが形成されていったが,それを仲介していたのは博労たちであった。 中国山地帯にはさまざまな牛馬守護神の信仰が見られる。第1のタイプは,昔からの土着神が牛の守り神として信仰されるようになったもので,例としては,荒神,大日如来,黄幡社等が挙げられる。第2のタイプは,当初から牛の守り神とする明確な意識のもとに受容された機能神的な性格の神である。例としては,大仙信仰や縄久利神社が挙げられる。後者は島根県広瀬町の神社で,牛の神として知られている。大正時代宮司が積極的に信仰を広めた結果,中国山地の各地に縄久利講社という組織が作られ,時には,小祠ではあるが分霊社も作られた。
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