水戸藩の農政思想としては、立原派と藤田派の農政思想を対比しつつ、立原派を代表する小宮山楓軒の農政思想の解明を主に行なった。農政思想が深化するのは、近世半ばに農村の荒廃が進行し、これに実効性のある対策を講じなければ、幕藩領主権力の支配自体が危機に直面したからである。 したがって当研究では、第1に水戸藩領農村の荒廃の特質を南郡を中心に具体的に明らかにした。第2に立原派の農政思想を小宮山楓軒やその同輩の農政担当者の著書を通して分析した。あわせて彼らと次第に政治的対立を拡大する藤田派の農政思想にも注意した。第3に小宮山楓軒らが農政担当者として実践した農村対策の諸側面の特色を育子政策をふくめて解明し、それらの政策の成否を明らかにした。 具体的には、小宮山楓軒が寛政12年から文政3年まで、南郡奉行として担当した鹿島・行方郡の農村構造の実態と変化に焦点をあてた。また小宮山楓軒の著作を公刊されていないものを含めて検討した。農村史料としては、鹿島郡紅葉村、行方郡青柳村等の文書とともに、行方郡玉造村の大場家文書の一部を検討することができた。大場家は玉造村や浜村の名主を勤めるとともに、中間管理者の性格をもつ大山守を勤めた関係で、多量の文書史料が伝存している。既成の文書目録では、文書量が多く内容が多岐にわたるため、検索が困難であった。本研究では、大場家文書の近世文書の目録をパソコンに入力してデーターベース化し、多様な目的に応じた検索を可能にした。 残された課題としては、立原派の農政思想と農村対策の相互関係の解明と、藤田派のそれらとの対比および天保期以降の政治的対立との関連の解明が考えられる。
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