律令が施行される7世紀以前、オオキミをはじめキサキたちやミコ・ヒメミコたちの居所は全てミヤと呼ばれ、それ故に数多くのミヤが飛鳥を中心に存在していた。ミヤで彼らに奉仕した女性たちはクニンと呼ばれ、ミヤと密接に関わる存在であった。しかし7世紀末頃オオキミが大王から天皇へ称号を変えるとともに、ミヤという語は天皇・皇后・皇太子など限定された人物の居所のみに使用されるようになり、宮が減少するとともに宮人の存在も限定的なものとなった。しかし律令の施行に伴い宮人の奉仕対象として新たに太上天皇が加わった。太上天皇は当初天皇と内裏に同居していたが、8世紀中頃天皇と太上天皇の宮が別に設けられ、奈良時代後半に受け継がれていった。やがて9世紀初頭平城太上天皇の平城遷都計画によって天皇とは全く別に宮と都を営む構想にまで進んだ。しかし薬子の変によってそのような事態は現出せず、太上天皇は儀礼的に天皇に従うこととなり、その居所も宮と呼ばれなくなった。一方、オオキミのキサキたちはオオキミと全く別に居所を構えるのが7世紀以前からのあり方であり、それはオオキミが天皇と称号を変えたあとも維持され、奈良時代中頃まで続いた。しかし奈良時代末皇統が天武天皇系から天智天皇系に移った時、まず皇后が独立した宮を営むことを止め内裏で天皇と同居するようになり、続いてその他のキサキたちも内裏に住むようになった。このようにして天皇のキサキたちと天皇に奉仕する宮人が内裏で共存する空間としての後宮が形成された。やがて嵯峨天皇の代に至り、皇后を頂点として後宮に住むその他のキサキたちや内裏で天皇に奉仕する宮人たちを組織した後宮が編成された。これが所謂後宮の成立である。以上のような変化は、日本の古代貴族社会が奈良時代末・平安時代初頃を境に母系制・両属性から父系制へと転換しはじめ、それに伴って女性の政治的・社会的地位が低下した現象を背景としている。
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