今年度は引き続き稲垣満次郎について、それも彼の植民論に焦点を絞って研究をすすめた。明治20年代には多くの海外植民論が生み出されたが、稲垣もその一端を担った一人である。彼が当時西欧対アジアという二分法的な思考から自山な地点に立ち、日本の自立の方策をさぐったことは前年度明らかにしたが、植民論はこうした方策の一つとして展開されている。 イギリス留学中に欧米諸国の植民の歴史を学ぶ中から、植民には二つの方法があり、日本が倣うべきは、イギリスが1815年以後に行っている白山貿易主義に則った植民地自体の発展を重視する「新法」の方だと結論し、帰国後彼は、東邦協会や殖民脇会に参加して積極的に植民論を展開する。そのために海軍の強化が極めて重視され、日本にとっての植民事業は(1)過剰人口対策として(2)日本の商業的発展を図るためという二つのねらいを持って主張された。具体的な対象地はフィリピン諸島、南洋諸島、オーストラリア、シベリアと広範囲に渡るが、彼が最も力説したのはオーストラリアのクィーンズランドと西豪州アルバニー近郊だった。 そして彼は植民は「シビライゼーション」を進めるものでなければならないと主張する。これは欧米列強の植民地獲得の正当化の論理を逆手にとって、日本も植民事業に乗り出そうとするしたたかな発想であった。同時にこの「シビライゼーション」に込められていたのが、いわゆる西洋先進国の「文明」ではなく、「道徳」を重視する彼独特の文明観・文化観であったことは注目すべきことである。この「シビライゼーション」の社会を日本人が植民することによって、オーストラリアなどに造ろうとした。こうした「シビライゼーション」を前面に押し立てた植民論にこそ稲垣の独自性が存在するのである。
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