壬辰・丁酉倭乱、豊臣秀吉の朝鮮侵略における講和問題は、利害が複雑にからみあった日朝明3カ国の交渉の経過を見ることが不可欠である。そこで、壬辰丁酉倭乱期の7年間、戦役の推移を描き出すために、実際に戦役に関わった西日本諸大名らの発給文書を中心に収集し、年次比定をほどこした目録作成を試みた。 同時に、この日明講和に朝鮮王朝がどのように主体的に関わっていったのかを知ることができる史料が、朝鮮王朝と明政府との往復文書を収録した『事大文軌』である。現存するのは断片的な23巻であるが、その中には、壬辰倭乱期が含まれ、戦中・戦後に王朝が収集した日本情報が多く記録されており、この目録作成を行った。 これらの史料から、キリシタン大名をキーとして豊臣政権の特質を探った論考を付す。キリシタン大名の豊臣政権での位置を考慮した場合、私領ではない占領地に対しては、彼らは何の権利も持っていなく、したがって教会建設の許可も出せないことを推測した。すなわち、個々の大名の行動であったとしても、背景となる豊臣政権の政策遂行状況を考えることが不可欠であることを指摘する。 本研究で作成した当該時期の編年文書目録は不完全なものであるが、今後、より完全なものをめざして補完していくこととしたい。
|