古代都城廃絶後の変遷過程を探るため、作業としては六国史・『平安遺文』『大日本古文書』などの文献史料から、各都城に関わる史料を検索した。それとともに各種発掘調査報告書から、平城京跡の条坊遺構(道路及び側溝)の事例を検索した。また幕末における平城京跡研究の到達点である北浦定政の「平城宮大内裏跡坪割之図」について、これまでは北浦家に伝わる草稿本しか知られていなかったが、数点の浄書本が見つかったので、それらを比較検討した。さらに都城遺跡の変遷を考察する際の参考になる、古代官衙遺跡について、多賀城跡、太宰府跡をはじめ国府遺跡・群衙遺跡などの現地調査を実施した。 さて上記のような史・資料収集作業を前提に、主に平城京跡について、その変遷過程を追求した。その結果、第1に9世紀前半から中頃にかけて、旧平城京が水田化の動きを示す頃、その地をめぐって平城上皇一族による集中とその否定などの、政治的動きがあったこと、第2に平城宮跡内においても、廃都後に条坊区画が施行されたこと、第3に宅地・道路の水田化が起こる際には、その間の歴史過程に規定され、かつての道路より一回り広い形で、一続きの水田ができあがることなどの諸点を、明らかにすることができた。 また北浦定政の「平城宮大内裏跡坪割之図」については、小原文庫・奈良女子大学に浄書本があること、それに古典保存会による翻刻本があることがわかり、比較検討を行った。その結果これらは基本的に北浦家にある草稿本を浄書したものではあるが、いくつかの重要な相違点があった。それは草稿本が一度にできたものではなく、幾度かの加筆修正を行ったものであり、かつ浄書本もその過程で、何段階かのものが作られたため、現存浄書本と一致しないことを意味し、定政の研究の深化を物語るものであることがわかった。
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