戦前の日本の社会政策は救貧から防貧を基本的な流れとして設定している。そして部落問題への対策も一部はこの政策の中に位置づけられた、また位置づけられようとしたのだが、あくまでもその基調は治安対策にあった。戦後においてもその枠組みの基本的な変化を見出すことはできない。確かに一部の都市では民主主義的諸潮流の影響からか部落問題の解決に向けての独自の取り組みは始まるのだが、少なくとも行政サイドの民生あるいは福祉部局において、都市政策あるいは都市社会政策との関連を充分に視野に入れた取り組みになっているとはいえない。なぜそうならなかったのか。そこにはアメリカ占領政策の中に部落問題への理解と対策が欠落していることへの反発、さらに政策立案担当者達の、戦前からの取り組みへの特別の思い入れ等の要因を指摘できる。その意味では戦後の同和行政はやはり戦前と同様に特別の事業として出発せざるを得なかった。そしてその特別の施策には、都市部落に集中していた在日朝鮮の人々に対する行政の対応、即ち在日の排除などに典型的に示されるように必ずといっていいほど排除の論理による施策の展開が伴った。もちろん戦後の都市部落では、住民の民主主義的な諸運動は活発に展開され、戦前に見られるような部落の支配は大きく揺らいでいたといえる。但し戦後の運動を担った人々の多くは、「部落問題の解決」というパイプを通して行政との特別の関係を設けており、民主主義的な地域としての運動が弾圧されたり弱まったりしてくると、この特別の関係が浮上、排除の同和行政が登場してくることとなった。
|