GHQ(連合軍最高司令官総司令部)の部落問題への対応は、その占領政策の目的から1して解放運動への対応に比重がおかれ、組織としてはCS(民政局)CIE(民間情報教育局)等が担い、PHW(厚生局)が担う萌芽はあったのだけれども、前面に出ることはなかった.これらの事実が、GHQの指示による戦前の融和事業廃止という理解を生み、占領期の同和行政の停滞という評価を生じさせることとなった.地方レベルでは戦前の融和事業を受け継ぎながらも、地方軍政部との折衝・協議の中で、戦後の同和対策事業が模索され始めていた。この期、地方行政機関の監視を担った地方軍政部のスタッフ(MGチーム)も、占領期の行政の非効率性から、間接統治に対する越権行為ともいえる独自の動きを見せ始めている.地方軍政部は主に公募採用によって担われており、京都や兵庫の社会事業へ関与する占領軍スタッフもこのような動きの中で登場し戦前の社会事業を担った都市官僚との連携の中で、都市の部落問題を視野に入れた社会事業施策の模索に一定の役割を果たすこととなった.大阪の場合、戦前の都市域の拡大からして、また関や山口などの社会事業を担った官僚の思想からして、社会事業そのもののなかに、大阪ならではの都市下層民対策が盛り込まれており、社会教化事業の一つとして隣保事業と区別したかたちで融和事業を行なったことなど、既に独自の都市部落に対する特別の施策を生み出していた.この流れが占領期以降の大阪の同和対策事業をかたち作ることになる.これに対し京都では、戦前からの都市部落、の対策、教化事業として出発した隣保事業が社会事業としての色合いを濃くし、戦後も都市官僚を中心に社会事業として中核的な役割を担うことが期待されるのだが、次第に同和対策の特別事業として展開をみせはじめる.
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