本研究では、永楽帝が行った北京遷都の歴史的意義を初期明朝史の中に位置づけるために、洪武帝晩年のいわゆる「北方遷都計画」をめぐる問題を中心に再検討を加えた。 呉〓の研究以来、洪武24年(1391)に行われた皇太子朱標の陝西派遣の事実は、洪武帝自身もその治世の晩年に至るまで北方遷都を企図していたことを示すものと理解されてきた。しかし検討の結果、この時期には、西安に王府を与えられた秦王の政治的過失や太原に王府を与えられた晋王の謀反の告発が行われるなど、王府への赴任から10年を経過して諸王封建体制にもさまざまな問題が生じていたことが明らかとなった。したがって、この皇太子派遣の目的は、首都を南京に置くことを前提として北辺を中心に配置された諸王封建体制の抱える諸問題の調整と北辺防衛の視察にあったと考えられる。 また首都南京の建設過程を検討することによって、洪武24年の段階は、洪武8年(1375)に中都建設が中止された結果、大内宮殿の改建や孝陵の造営もすでに行われて、首都南京全般のインフラ整備が最終段階に達していた時期であり、南京以外の地への遷都が再浮上する可能性も極めて少なかったことを明らかにした。 以上の考察から、靖難の役とその後に続く北京遷都のもつ初期明朝史における歴史的意義は、洪武11年以降に確立しつつあった政治の中心と経済の重心を一致させた南京=京師体制から、両者を分離させる「北京シムテム」に改変することにあったということができる。
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