本年度は、第1に、〓善国・楼蘭屯戍関係文献及び文書史料関係文献、周辺諸地域関係文献を調査・収集し、その検討を行なった。特に、1989年〜1997年分の楼蘭・ロプノール関係文献を約2000点リストアップし、9割以上を収集した。第2に、本課題遂行にあたって、最も基本的でかつ重要な問題である〓善(楼蘭)の都城問題について、従来の諸研究とその問題点を検討した。その結果、(1)楼蘭が前漢の前77年に〓善と改名した際に楼蘭故城から若羌または米蘭に南遷した、(2)改名後も終始楼蘭故城が都城であった、(3)改名後も楼蘭故城が都城であったが北魏時代前後に南遷した、(4)改名以前から終始南方の若羌または米蘭が都城であった、などの見解に整理できるが、(1)は前77年の南遷の事実の有無とその可能性に問題を孕み、(2)は『沙州伊州地誌残巻』の誤読・誤解に基づくなど致命的な問題があり、(3)はカロ-シュティー文書による判断が決定的でない上、『水経注』の理解にも疑問を残し、(4)は『史記』や『漢書』の記載と抵触する部分がある上、何よりも南方の遺跡が楼蘭故城同様に漢代の遺跡とは確定できていないこと、などを指摘した。第3に、その上で、『漢書』『水経注』『沙州伊州地誌残巻』など文献史料や考古学的発掘調査報告をもとに検討し、(1)楼蘭故城は漢代の遺跡ではないこと、(2)改名時の遷都は有り得ないこと、(3)ロプノールとの関係が無視できないこと、(4)『史記』『漢書』によると敦煌から都城までの経路がロプノール北と考えられること、(5)カロ-シュティー文書から一時王が楼蘭故城地区にいたことは分かるが都城とは確定できないこと、(6)『水経注』には章巽指摘のように錯簡が見られ、それを考慮すると、北魏時代扞泥城を東故城と称したこと、(7)『沙州伊州地誌残巻』の石城鎮は明らかに若羌に比定できること、などを明らかにし、以上を総合すると後漢前期に若羌に南遷した可能性が高いことを明らかにした。
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