本研究では、まず第1に、〓善・楼蘭及び周辺諸地域関係文献を調査・収集し、その検討を行なった。その通程で、特に1989年〜1998年分の楼蘭・ロプノール関係文献を約2000点リストアップし、9割以上を収集した上、『楼蘭・ロプノール関係文献目録(1989-1998年)初稿』を作成した。第2に、楼蘭故城及び周辺の遺跡の実態を考察した上で、〓善(楼蘭)の都城問題について検討した。その結果、(1)楼蘭故城は漢代の遺跡ではない、(2)改名時の遷都は有り得ない、(3)ロプノールとの関係が無視できない、(4)敦煙から都城までの経路がロプノール北である、(5)カローシュティー文書で故城が都城とは確定できない、(6)北魏時代扞泥城を東故城と称した、(7)石城鎮は明らかに若羌に比定できる、ことなどを明らかにし、以上を総合すると後漢前期に若羌に南遷した可能性が高いことを明らかにした。第3に、楼蘭出土文書をもとに魏晋期の楼蘭屯戍の活動の実態などを再検討し、周辺地域との関わりを明らかにした。特に水利開発と農業活動、軍事的・警察的活動と周辺地域、交易活動と周辺地域について考察し、その結果、楼蘭屯戍は西城南道のルートを確保するとともに、北道や天山北路に関連して焉耆の動向を注視していたことや、高昌(吐魯番)の戊己校尉府と軍事的に密接な関係をもっていたことを考察した。中国方面との関係では、敦煌・姑蔵との関係を示す文書が散見し、特に敦煌と経済的関係が深かったこと、紙文書には姑蔵出身の高位の属僚クラスと推測される人物の私文書の草稿の断片も多く、敦煌出身者とともに姑蔵出身の属僚や兵士がかなり存在したであろうこと、特に前涼時代にはそうであったろうことなどが推測できた
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