清代モンゴルの法制史は、ヨーロッパやモンゴル国でのモンゴル文文書主体の文献学的文書研究と日本や中国での漢文法典主体の法制史研究とがすれ違いに終わっており、筆者は双方をつなぐ研究をしたい。例えば文書書式の唯一の研究者ノロブサンボー氏も、清代モンゴルの文書書式を13世紀以来のモンゴル固有の伝統的書式とし、諸外国、特に中国からの影響を無視している。しかし実際には、清代のモンゴル文公文書書式は、13世紀の文書とも16〜17世紀初めの文書とも全く共通せず、モンゴルの伝統を受け継いだだけの物とは認めがたい。 清代モンゴルの公文書書式としては、冒頭で発送者、次いで宛先が明示され、その後文書の最終用件が提示された後、ようやく本題部分が始まる。文中では多くの文書が何重にも直接引用された後結論が述べられる。文書の末尾にも定型文言があり、最後に発送年月日が記される。文中では拾頭・平田・閾字等が見られ、口供を記録した別紙が最後に添付されることもある。犯人や証人の口供や甘結の後には、しばしば指紋の押捺等の画押が取られる。さらに法律条文は直接引用され、文書の端々に定型化した特定の細かい言い回しが多数見られる。以上のいずれの書式も、むしろ清代の中国本土での漢文文言とことごとく共通している。 従って清代モンゴルの裁判文書を初めとする公文書書式は、モンゴル伝来の書式というより、満州文文書を介して中国本土から導入されたと考えるべきである。そのことは、「必要的覆審制度」や「州県自理の案」の存在、「検尿をsirqaci(?作)が『洗冤録』を用いて行う点」等々、裁判制度面におけるモンゴルと中国本土との共通性からも確認でき、文書書式と制度とが一括して導入された可能性が高い。その導入時期の問題はいまだ不明なので、次の課題となろう。
|