朝鮮半島に立国した国家は、3C以来、自国の安全保障のために中国大陸の国家と宗属関係を結んでその冊封体制下に入り、この体制に最適合することが行なわれてきた。しかし、19世紀後半に入って東アジアも近代化の波に呑まれ、一国レベルと国際関係のそれぞれの近代化に迫られた。このとき、冊封体制の枠外にいた日本が欧米に開国した後、いち早く国内の体制変換(明治維新)を終え国民国家を形成するとともに、東アジアの国際関係の旧体制てある冊封体制を解体して新たな条約体制を創出しようとした。 朝鮮は1860年代からウェスタン・インパクトに見舞われたが、国内の鎖国攘夷派が強くて開国政策に転換できなかったが、宗主国の清の国際戦略によって鎖国攘夷派を排除して開国政策が進められ、かえって清への隷属性が強まった。 日清戦争によって清が敗北した結果、朝鮮は清から独立したが、この独立は、単に政治的な独立だけではなく、文化的な独立をも意味した。政治的独立としては、元号の使用(1896)、国号を大韓帝国、君主の称号を皇帝に改称(1897)、大韓国国制の制定(1899)なとがあり、文化的独立としては科挙の廃止(1894)、ハングルを公用文に使用(1895)などが挙げられる。宗主国の清に最適合した属国から独立した国家になるために、国民の形成が必要とされ、そのためには国民文化の形成が求められ、文化的独立の意味は日本の近代化にはない大きな特徴であった。
|