本年度は、寧波、成都に引き続き武漢を中心にすすめた。成都については、4月の東洋経済史学会で報告し(「四川成都の都市水利」)、2000年3月刊行の同記念論文集に論文として発表した(「四川成都の都市形成と水利問題」)。 98年夏、長江中流域を襲った水害は改めて長江水利の重要性を再認識させるとともに、中流城最大の都市である武漢の存在をアピールした。武漢と長江水利関係の研究史を整理したうえで、前年度に続いて、当該地域の地方志(漢陽県志、江夏県志等)を購入し、国会図書館、東洋文庫、東大東洋文化研究所、兵庫教育大学等に出向いて関連の文献史料を写真複写等で蒐集した。これらの研究成果の一部は、東洋経済史学会夏季セミナーで報告した(「長江中流域の洪水被害と武漢」)。また、99年度の中国水利史研究会大会は、「中国水利史シンポジウム〜98長江大水害をめぐって〜」というテーマで開催し、その基調報告をおこなった。 武漢の本格的な開発は近代になってからであるが、長江最大の支流である漢水との合流点に位置して、古来、水運路を繋ぐ交通の要衝として栄えた。晋代には楊夏水道が建設されるなど長江中流域の中核都市となっていった。三国時代に孫権が夏口城を築いて以来、江夏、武昌と改名しつつ開発され、次いで漢陽が、開港後は漢口が目覚ましい発展を遂げ、武漢三鎮と呼ばれた。現代は対外開放都市として国家重点都市に指定されている。これが今回の洪水災害に際して国家を挙げて対応させた背景である。 比較的緩やかな流れの長江にあって、江陵から武漢にかけての区間は曲流し、古代からたびたび大水害を起こしている。荊江大堤の建設が始まったのは両晋時代までさかのぼる。これらの水利事業と武漢の発展との関わりを考察中で、近く発表予定である。 並行して、南北宋朝の都である開封と杭州の都市水利の研究も進行中である。
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