ヴィクトリア朝末期は、大英帝国にとっては危機の時代であった。この危機の時代に現われた様々な反外国恐慌症的反応を本研究では「黄禍」論的反応と呼び、そこからこの時代のイギリス世界が抱えていた問題を逆照射しようとした。本年度は「黄禍」論の本来の対象地域であるアジアだけに視野を限定したので、本研究が有しているグローバルな視野から得られるはずの成果はまだ見えてこない。しかし、いくつかの成果も既に得られた。イギリスの場合、ドイツなどとは異なり「黄禍」論はさほど激しいものではなかった、とされる。確かに、『エディンバラ評論』などの文献史料に依拠した拙著『大英帝国のアジア・イメージ』において明らかにしたように、こうした見方は言説のうえでは妥当なように見える。だが、この時代の代表的な風刺週刊誌『パンチ』などをみると、オーストラリアなどでの「黄禍」論に呼応する土壌がイギリス本国にも確実に見られたことがわかる。オーストラリアやニュージーランドで顕著だった「黄禍」論がイギリス本国に逆流してきていたのである。さらに、この「黄禍」議論反応は、イギリス-ヨーロッパが囚われていた「文明化の使命」が失敗であったという認識にも深く関わることも『パンチ』とうの図像学的史料から窺える。このように、本研究が目指している図像学的史料と文献史料との併用は十分な成果を予想させるものである。 また、本研究はこうしたイギリス-ヨーロッパの非ヨーロッパ観の研究とジェンダー・イデオロギーとの関連性も浮き彫りにしつつある。
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