研究代表者は前6世紀から以降、前5世紀末にいたるまでのアテナイにおける、互酬および賄賂にたいするすべての言説を、古典史料および碑文史料を駆使することにより網羅的に集め分析した。その結果以下の点が明らかになった。(1)賄賂に対する批判的言説が公的な動機づけに基づくようになるのはペルシア戦争(前490-79年)直後のことであること。(2)これを契機として異民族からの収賄に対する警戒心を生み出したアテナイ人は、さらに「敵国に買収されて将軍(ストラテゴイ)が軍を不当に引き上げる」という賄賂概念を育てるにいたる。(3)前5世紀半ばすぎになると、本来身内であるはずの同盟諸国市民に対して向けられる警戒心があらたな賄賂概念を生み出すことになった。すなわち、デロス同盟諸国の市民が、賄賂を用いて同盟貢租にかんする不正を働くのではないか、とする観念である。(4)さらに新たな賄賂概念は、前5世紀後半に市民権授与をめぐる政治疑惑事件とともに発生する。すなわち、外国人がアテナイ市民権を獲得するために賄賂を使ったのではないかという疑念がアテナイ市民の意識の中に生じ、それが一連の民会決議や法律の制定に結び付いたのではないかと推測されるいくつかの証拠が見られるのである。そして、このようないわば内なる他者に対する警戒心が、賄賂全般に対する警戒心につながり、弾劾裁判(エイサンゲリア)によって民会での発言者の収賄を摘発するという法制的対抗措置を結果的に生み出したのではないか、という仮説に到達したのである。 要するに、本来贈与的価値観が文化の基層にあったアテナイ社会も、ポリスという新しい制度の進展とともに、少なくとも有る種の贈与はポリスの安全を脅かすものとして排除しなくてはならないという合意形成に至ったのである。
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