昨年度迄は、ナポレオンにより西北ドイツに設けられた2つの人口国家、ウエストファリア王国とベルク大公国の統治体制を、1807年から1812年の時期の隷農制廃止問題を中心に考察した。今年度は、フランス人官僚による統治体制の下で、かれら自身と前プロイセン官僚および在地官僚群の、隷農制改革やナポレオン民法典の導入を前にして抱いた危機意識を個別に検討し、どのような意識の差異があるかを考察した。さらに、イタリアのミラノ公国を切り替えたチザルピーナ共和国、さらにはこれにリグリア共和国などを併合して作ったイタリア共和国(1802〜05年)における統治のありかたを政治的・行政的に考察し、イタリア人議員の指名された議会とイタリア人官僚のナポレオン支配中枢部との関係、民法典の導入や土地改革・公共事業であげた成果などを中心に論じた。その結果、人口国家での前プロイセン官僚には、(1)啓蒙学者・法律家らとともに、フランスの求める改革に同調し、自らの改革理念を提示する者、(2)したたかに自主行政を可能な限り貫こうとした王国のビューロやマルヒュス、(3)ミュンスター貴族の典型で、18世紀以来強まっていたプロイセンの圧力を逃れる手段をナポレオン支配に求め、これとの協力関係に入ったが、在地グーツヘール(領主)の利害を損なわれないようにと配慮する大公国のメルフェルト伯のような官僚、以上の3タイプにわけできることがわかった。ナポレオン民法典は西北ドイツでは新しい性質の民法であり、「ドイツの現実に合わせた導入」を説く学者も少なくなかった。 これに比し、イタリアでは、18世紀以来、教権主義に対する国権主義がナポリ王国の法学者らの間に芽生えており、さらに封建制度・貴族支配を支えていたローマ法をも批判するところまで進んでいた。この法思想史的土壌が、ナポレオン民法典の速やかな適用に道を開いたといえよう。
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