11・12世紀のヨーロッパにおいて、多くの世俗の権力者が自らにふさわしい葬儀と墓所、そして死後の霊の安息を願い、修道院とのフラタニティの関係を結んだ。寄進を通して半修道士(フラター)の扱いを受けた盟約者は、死に際して修道士の服をまとい、修道士の祈りのうちにしかるべき場所に埋葬され、『命の書』に記載され、周年祈祷を受けたのである。フラタニティの研究は大陸では厚い研究史をもっているが、イングランドでは史料の整理が遅れていることもあって等閑視されてきた。本研究では、アングロ・ノルマン・イングランドの史料を渉猟して、最終的にラムゼイ修道院のものに焦点を絞った。そして、12世紀の修道院とフラタニティ関係を結んだ12例を抽出して、その一つ一つを傍系の史料を用いながら、個人の場合は、その身分と家系、保有地、社会関係を分析し、1例抽出した団体である教区ギルドに関しては、その存在の意味を検討した。 9例ある俗人は、王国的レヴェルの大貴族から農村ジェントリーまでの幅広い階層からなり、2例は在地の聖職者で、いずれもフランス人とイギリス人の両方の民natioを含んでいて、フラタニティが二つの民を同化させるミキサーの役割を果たしたことが伺われる。聖職者やギルドが含まれていたのは、ミンスター制から小教区制への移行過程でフラタニティが、小教区制成立に於て古い遺制を吸収するクッションの役割を果たしたことを伺わせる。また、寄進地プレカリアを検討して、想像以上に寄進者の立場の強さを確認した。 当時の修道院は、その修道士の多くを周辺の地域有力者の子弟から補充していた。このリクルートシステムとフラタニティが両輪となって、修道院は地域有力者のネットワークの要の位置を占め、地域的社会結合に大きな役割を果たしていたのである。
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