雇用形態の多様化は、こんにちの日本が直面している現状のひとつである。経済状態の悪化は多くの企業の余裕を奪い、終身雇用制度は今や風前の灯であるかのように報じられる。しかもそれが当然あるべき途であるかのニュアンスを含んである。大学教育の現場においても、多様化した雇用形態がもたらす影響は甚大である。昨今の不況は確実に就職者の数を減じているが、問題は量的な次元にとどまらない。派遣社員、契約社員、フリーターとして、社会人一年目を迎える学生の数が増加の一途をたどっていることは、経験的に理解されるところであろう。 しかしながら、このような変化を経済動向の推移のみに還元して納得することには、違和感もある。逆に積極的に上記の選択を行っている節も、少なくとも一部には見うけれるのである。曰く、自分の将来についてはすぐに結論を下さず、時間をかけて考えたい。曰く、ひとつの会社に自分の一生を捧げたくない。曰く、自分で自分の時間を管理したい等々。これがどこまで真に主体的な選択であるかは、ここで直ちに結論が出る問題ではない。消極的な選択を自己正当化している事例もあるだろうし、周囲の情報を咀嚼せずに繰り返してる場合もあるかもしれない。とはいえ、これまで学校を通じて管理されてきた者が、初めてその束縛から脱出しょうともがこうとしている意識そのものまで、頭から否定するのはあまり生産的ではないように思える。 19世紀末のロンドン港を対象とする本研究の関心は、直接的に上記の現状認識と結び付いているわけではない。しかしながら仕事への距離の置き方を巡る働く人々の意識が問われなければならないという一点に限れば、両者にある程度の共通項も見出せる。それはまた、近代的な労働観そのものを問い直すための予備作業でもある。
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