1939年9月17日、ポーランド崩壊に伴って国外に流出した軍人の流れの中で最大のものは、ルーマニアへのものであった。本年度の研究は、これらの軍人達が、どのようにしてイギリス及びフランスに到着し、それに際しての関係諸国の政策はどのようなものであったかということに関してである。 ルーマニア政府は一旦はポーランド軍人をうけいれたものの、ドイツからの強い圧力をうけて、その出国を認めなかった。しかし間もなくポーランド軍人達は、戦争の続行を求めてルーマニアからの脱出を始めた。 しかしながらイギリスは、ポーランド人の収容にたいして、輸送費用、施設の不足などを口実に難色を示した。受け入れる数を制限し、それもポーランド空軍関係者に限定したさらにポーランド側の意向に反して、イギリス本国だけでなくカナダその他に分散するという政策をとった。ポーランドにたいする同盟国として義務を感じながらも、ドイツ、ソ連との摩擦をおそれたことがその消極さの原因になっていると思われる。 間もなくドイツはイギリス占領を目的として、空軍による爆撃を開始した。これに対抗してイギリス側は迎撃に全力をあげるのであるが、「イギリスの空の戦い」として知られるこの戦闘において、ポーランド空軍パイロットの果たした役割は、決定的とも言えるほど重要になった。 この間におけるイギリス側の政策、対応の変化、また国を喪失し、戦闘員のみが外国の装備によって戦闘するという特異なポーランドの状況をみることが、今年度の研究の主たる内容であった。
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