第二次大戦の勃発に際しポーランドは、バルト海に面した港ダンツィヒ港をドイツ側に譲り渡しておけば、戦争をまぬかれる可能性があった。しかしポーランドはダンツィヒを失うくらいなら国家の崩壊のほうを選ぶとして、ドイツと戦ったのである。何がポーランドをして勝ち目のない戦争に駆りたたせたのか。そして国家の崩壊、大量の死傷者、亡命者をだすことになったのか。また、完全は孤立の中で、ロンドンに亡命したポーランド政府を半世紀間に渡ってささえてきたものは何か。その根本にある意識をさぐることが、本年度の研究となった。 ポーランドはドイツと手を組んで自国の安全を確保するという道を選んだのではなく、国家の崩壊を覚悟の上で、ドイツを敵にした。この行為がナチと戦う勢力を支援することになり結果としては連合国の勝利をもたらすことになったのである。 1920年にもポーランドは同様な行動をとった。世界革命を意図して、西ヨーロッパに進出してきたソビエト赤軍との戦いである。この時もポーランドは孤立のまま戦って、勝利を納めた。西ヨーロッパを崩壊・混乱から救ったのはこのポーランドの勝利であった。また東欧におけるソ連支配を崩壊させたのもポーランドの反体制はの蜂起からであった。 すでに19世紀にも、あるいは18世紀にも、またもっとさかのぼれば11世紀にもこのような例はあげることができる。自らの崩壊を覚悟の上で敢えて守ろうとしたものはポーランド人の名誉という意識であった。この意識の強いことは、隣国のチェコなどと比較したときに瞭然としている。国家よりは個人の名誉を重視するポーランドの伝統が、長期にわたる亡命・捕虜。流刑の生活を支えたのである。
|