この研究では、7世紀の有力氏族の居宅の発掘を収集し、区画施設、居宅規模、建物構成、建物配置に関して分類を行った。そのうち建物構成では、大型堀立柱建物の主屋と付属建物との配置の分類を試みた。また愛媛県来住遺跡、三重県額田廃寺で見つかった居宅など、多くの現地を踏査した。また、飛鳥地域や最初の都城の藤原京から検出されている居宅資料を検討した。その結果、地方の有力氏族の居宅と大和の中枢部の居宅との比較がある程度できるようになった。 また、8世紀の居宅は主として平城京の居宅を細かく検討を試みた。これには居宅の外郭を区画するだけのもの、外郭と内郭からなるもの、内郭部を複数もつものがある。これらのうち内郭が複数のものは、左京3条2坊に構築された長屋王の邸宅のみである。平城京での居宅の建物構成には、左右対称配置、中軸線を合わせて大型建物を配置するもの、東西棟を中心に東西棟、南北棟からなるもの、複数の東西棟からなるもの、南北棟のみで構成するものがある。このような建物構成は敷地の広さと深く関係している。内郭をもつ居宅のうち、左右対称の建物配置を示すものは、有力氏族の居宅とみなすほかに、官衙の性格をもつものとする見解が出されており、その性格の検討を試みた。居宅の敷地が狭いものには、南北棟を主体とする建物構成が顕著にみられ、敷地には8分の1町、16分の1町のものが知られる。しかし32分の1町のものはまだ資料が少なく、確実なものとはいいにくい。このような居宅資料と中国の長安、洛陽の居宅と現地を訪れて検討した。これによって、畿内や各地で検出されているこの時期の有力氏族の居宅の類型化をほぼ進めることができ、大きな見通しをうることができた。
|