弥生時代から古墳時代における青銅器祭祀の出現と消滅、厚葬墓の出現といった現象は、杜会組織の変動と関連させて理解できる。弥生時代末から古墳時代前期の首長墓祭祀も一種の集団祭祀とみなせるが、青銅器祭祀とは合い容れない質的差異があり、単なる社会統合のシンボルの交替と見るべきではない。弥生時代中期に出現する墳丘墓は、大規模な墳丘をもつ点で一括して論じるべきではなく、必ずしも血縁関係にない複数有力者が累代葬られたA類、特定有力家長とその血縁者に絞り込まれたB類とに区分すべきである。弥生中期末に出現するB類は、単位地域内における青銅器祭祀との交替状況の分析からみて、共同体祭祀としての青銅器祭祀とあい容れない性格を持つ。首長権の特定家族への集中が、集団祭祀の形骸化と換骨脱胎を伴って行われたとみなせる。弥生中期後半に北部九州の土器様式構造に揺らぎが生じ、瀬戸内海沿岸地域以東の要素が流入し始める。後期には一部の器種の器形や製作技術が外来系となり、その傾向は庄内式併行期にさらに強まり、布留式併行期には外来系器種が主体となって様式構造転換は完了する。これは弥生時代中期から後期における厚葬墓・甕棺葬の衰退、青銅器祭祀の隆盛と消滅、墳丘墓祭祀の登場、など伝統的価値大系の衰退現象と連動している。階層化がもっとも早く進行したとの説もある北部九州においても、集落内でそれを裏付ける様相は顕著にならない。床面積が大きな高床建物は首長の居所や神殿建築ではなく、集会や共同祭祀などの公共機能を果たした場と見るべきである。また倉庫も集団全体に帰属し、共同管理を受けたという形から逸脱することはない。もちろん首長の政治的成長は進行していたが、見かけ上の共同性の強化の裏でしか進行させえなかったことが如実にわかる。
|