作者及び書肆の営為と相関について、西鶴作品及び上方狂歌の両面からとりあげた。 『男色大鑑』の成立について、貞享元年の書籍目録の記載との関連について吟味した。『男色大鑑』は貞享4年に出版されたが、すでに貞享1年の時点で計画され、予告されていた。しかしその時点では、現巻5・8の2巻分のみが創作されていたにすぎず、貞享2年に出版された『諸艶大鑑』と対になるものであったと推定される。『諸艶大鑑』の版元岡田三郎衛門は同趣のものであるところから、予告のみで出版を取りやめたのである。その後、西鶴は武家物創作に関連して、貞享4年に現巻1から4の武家物4巻、さらに他の2巻を加えて、現『男色大鑑』となし、深江屋太郎兵衛から出版されたのである。深江屋はそれまで俳諧書を出版していたが、西鶴作品によって営業を回復しようとしたのである。 そのような『男色大鑑』の成立事情は、『男色大鑑』にみられる『遊仙窟』字訓によっても証明しうるのである。 『好色一代男』の巻3・4は、世之介の勘当の章段であるが、そこには通常の商人修業とは異なった価値観がみられる。それは当時の大坂町人の新しい価値観への模索であり、その点が新しく出版メディアとして流行した『好色一代男』が、初めの素人出版から、再版以後は専門書肆から出版されることに大きく関連している。 また上方狂歌が書肆によって多数出版されるようになるのは、狂歌の内容と作者たちが、より新しい近世としての価値観を身に付けてからである。芸備地方の狂歌を調査すると、貞柳追善についても写本のみしか残されておらず、まだ近世出版環境に組み入れることはできない。そのような多くの要因が存在する文化的背景を視野に入れねばならない。
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