二年計画で行われた本研究の二年目は、ホイットマン作品において植民地主義に関するディスコースがどのように展開されているかを考察した。とくに、支配と被支配の関係を軸にした植民地主義を否定したうえに確立されるはずのユートピアが、反対にアメリカ中心的な思考を顕現させてしまうプロセスを分析した。 具体的にいえば、ホイットマンが『草の葉』のなかでつくり出した「わたし」という巨大な主人公は、異人種や異文化をすすんで包含しようとするポジティヴなヴイジョンをもっと同時に、白人男性の視点を中核とした世界観を提示してしまっていることを解明したのである。「わたし」はあらゆる民族と同一視されるいっぽう、「アメリカ人」という本性を露にしてアメリカの優位を歌ってしまう。植民地主義を否定して誕生したはずの「アメリカ」をめぐるディスコースに、はからずも自国中心的な思考を表すレトリックが混入してしまうのである。 このように、ユートピア的ヴイジョンを志向するディスコースのなかに、それを裏切るディスコースが介入してくるプロセスを解明した。そしてこれをー年目に分析したブレイクのディスコースの場合と比較しながら、ブレイクとホイットマンのポストコロニアリズムをめぐるディスコースに見られる共通性を明確にした。
|