「英文学研究」とい知的活動において、「近代」という言説の機能について、顕在面と潜在面にわたって考察を行った昨年度の成果を基に、今年度は、「英文学研究」を文化を越えた一種の普遍的位相において扱うのではなく、あくまで特殊日本的活動と捉え、特に「近代」に関連して、その「言説」の基本的枠組みを考察した。日本の英文学における「近代」の言説とは何か、その西洋的言説との接点はどこにどのように求められ得るか、これらが最終年度の研究課題であった。(1)日本の英文学における「近代」的言説は明治以来、営々と行ってきた英文学という知的活動とそのまま重なる。それは第一に西洋近代文化の輸入であり、第二には西洋文化内で行われた西洋批判に関する同様の輸入である。今日でも、この作業は批評理論の流行の紹介というかたちで続いている。この言説は、さまざまな理由から、日本で展開している「近代」の言説と根本的には交わらないことを多くの場合前提とする。(2)英文学に即して、日本における「近代」的言説と西洋における「近代」的言説との接点が何処に求められるかと問うならば、幾つかの可能性が考えられる。第一に、明治以来の近代化(西洋化)の流れが、西洋の近代化の動きと本質的に同質のものであると考える「普遍論」。第二に、西洋と日本の「近代」は重ならないまでも、「近代批判」という反省的態度において共通するものがあると考える「批評共有論」。第三に、彼我の「近代」および「近代批判」は本質的に異なるが、全く乖離したものではなく、意識的に比較検討することが可能で、そうしなければならないとする「差異近代論」。本研究は、第三の立場が、今まで等閑に付されてきた重要課題であると認識し、その端緒を、英文学そのものからはやや離れるが、西洋近代論の言説に深く係わり同時に我が国についても直接的体験を有する哲学者カール・レーヴィットに求めた。研究成果報告書は従って、レーヴットとラフカディオ・ハーンを論じ、日本の英文学における「近代」の言説研究序説とした。
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