研究実施計画にあげておいたアレン・テイト論とフォークナ-論のうち、前者については「アレン・テイト『父祖たち』と歴史の「深淵」」と題する論考を書き上げた。後者については、「歴史を書く/歴史のなかで書く-フォークナ-の『行け、モ-セ』について-(仮題)」という論文の草稿を書き終えている。 テイト論は、この南部文芸復興期の代表的詩人が書いた唯一の長編小説『父祖たち』を取り上げ、そこに見られる旧南部と新南部の対立の構図、主要人物ジョージ・ポウジ-の性格造型ならびにその行動の意味、語り手レイシ-・バカンの視点の問題等を考察したものである。新南部を象徴するポウジ-の激しい暴力的行動の不可解さの奥に、旧南部の秩序の崩壊にともなって出現した歴史の「深淵」をテイトは見ていたことを指摘した。この「深淵」は伝統的な儀式や慣習が形骸化することで歴史的想像力が枯渇するところに生じるものであり、旧南部の文化のイデオローグとみなされがちなテイトが、近代性の反措定としての伝統的な共同体のもつ意義を十分に認めつつも、じつはそこに批判的な視線を投げかけてもいたことを明らかにした。 フォークナ-論の方は、『行け、モ-セ』のなかの「熊」の第4章を考察の中心に据え、アイク・マッキャスリンが紡ぎ出す歴史的ディスコースの特質を分析したものである。アイクの荒野でのイニシエーションが異質なるもの・雑多なるものを排除するところに成立するエピファニ-体験であり、その体験に裏打ちされた彼の歴史的ディスコースも、本来荒野に内包される異質性・雑多性の排除の構造に立脚しているというのが、この論文の骨子である。この論考は加筆修正のうえ、然るべき場所に発表するつもりである。
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