(1) アレン・テイト『父祖たち』と歴史の「深淵」 この論文は、アレン・テイトの長編小説『父祖たち』と取り上げ、そこに見られる旧南部と新南部の対立の構図、主要人物ジョージ・ポウジーの性格造型ならびにその行動の意味、語り手レイシー・バカンの視点の問題等を考察したものである。旧南部の文化のイデオローグとみなされがちなテイトが、近代性の反措定としての伝統的な共同体のもつ意義を十分に認めつつも、じつはそこに批判的な視線を投げかけてもいたことを明らかにした。 (2) 「歴史を書く/歴史のなかで書く--フォークナーの『行け、モーセ』について--」 本稿は、『行け、モーセ』のなかの「熊」の第4章を考察の中心に据え、アイク・マッキャスリンが紡ぎ出す歴史的ディスコースの特質を分析したものである。アイクの荒野でのイニシエーションが異質なるもの・雑多なるものを排除するところに成立するエピファニー体験であり、その体験の裏打ちされた彼の歴史的ディスコースも、本来荒野に内包される異質性・雑多性の排除の構造に立脚しているというのが、この論文の骨子である。 (3) 現在執筆中のロバート・ペン・ウォレン論では、ウォレンの代表作All the King's Menを取り上げた。史実がフィクションに変容する際に南部の文化的神話、その文化的ディスコースが作家の想像力にどのように作用しているかという観点から眺めたとき、ウォレンのウィリー・スターク像には旧南部の古い秩序にたいする民衆の側からの反逆が投影されているのではないかという可能性がみてとれる。ウォレンはここで神話的な旧南部像を書き換えようとしており、そのことが一面で権力の腐敗の権化ともいえるスタークに対するウォレンの共感を生み出しているのではないかと考えられる。
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