かつては、「難しい法律論や面倒な判決起案を避けるため」に和解に逃避することが戒められたのであるが、最近では、和解は「戦後民事裁判の長所の一つ」とさえ言われるようになった。量的にも、民事事件の第一審通常訴訟事件の既済事由の32.8パーセントを占め、また、水俣病訴訟やHIV訴訟におけるように、判決では難しい救済が和解によって「超法的解決」が得られるという高い評価も得ているのである。 和解の現状を分析すれば、それが裁判官にとって使い勝手のよいものであることがまず指摘される。和解期日と弁論期日をわけることなく「弁論兼和解」という方式で行われる結果、法廷を使う必要がなく、時間も自由に設定でき、裁判官も法服を着用せず、書記官も通常は立ち会わない。従って、大量の事件処理を行わねばならない裁判官にとって便利なものと言えるが、当事者にとっても、和やかな雰囲気の下で率直な協議が可能という利点がある。 一方、この方式の融通無碍という特質からして、当事者及び証人からの心証は口頭弁論期日の枠の中で形成するという原則がその意味を失い、訴訟=判決手続の弛緩をもたらす可能性も存在する。また、和解手続と訴訟=判決手続は不即不離の形で同じ裁判官が関与するのだから、裁判官の公正さが保たれるのかが問題になろう。そうなると、平均的訴訟当事者が、審理の大体の流れを理解しておかねば大きな不利益を被ることになりかねない。敗訴の結果を隠すことができるなど和解は弁護士にとっても都合のようものであるから、弁護士に完全に依存してしまうこともできないのである。 紛争処理に際しての和解の可能性は評価しつつも、そこでは裁判官の裁量的判断が多用されるため、訴訟当事者の手続保障がその主体性確保のためにも整備されねばならない。
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