本研究の目的は、講和条約から1965年のベトナム戦争本格化までの日本の東南アジア政策の再形成過程を主にリージョナル(地域)レヴェルにおいてとらえようとするものである。具体的な分析対象としては、最初の地域レヴェルの外交経験であったのコロンポ計画への加入問題(1954年)、エカフエ(ECAFE)加人間題(1955年)およびアジア・アフリカ会議参加問題(1955年)であつた。主に日本外務省の戦後公開記録と英米の公開外交記録を活用し、とくにコロンポ計画参加問題についていくつかの論文を発表した。新たな知見として、独立後のアジアをめぐる日本の「地域外交」は、二つの路線が存在していだことが確認できた。すなわち、一つの有力な路線が、「日米協力による東南アジア開発」に始まり佐藤政権の東南アジア開発閣僚会議等に連なって行く、アメリカの対アジア冷戦戦略に加担する「反共経済圏」路線であったとすれば、政治的立場を異にするSEATO加盟国とコロンポ諸国が共存するコロンポ計画への加入は、賠償問題の未決が東南アジア政策の再構築を妨げるなかで、南アジアを含む広義の「東南アジア」地域を対象として現実的で、柔軟な経済協力の可能性を探ろうとする路線であった。この路線は広義の「東南アジア」に対する多様なアプローチの可能性が含まれていたが、ペトナム戦争の本格化がそうした可能性を閉ざしたのである。例えば、ベトナム戦争の本格化(1965年)を境に日本のアジア援助政策はビルマ以東が中心となり、南アジアは広義の「東南アジア」から分離されて行くのである。
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