本研究はタイの農務省官僚の人事記録に基づいて、1940年以前のタイにおいて官僚制の徴募基盤が全国に拡大していたのかどうかを調べ、当時のタイにおいて国民が形成されていたかどうかを考察した。この人事記録には1921年時点の在職者並びにその後1940年までの入省者3022名分が含まれている。 人事記録を使って、農務省官僚の出生地、父親の職業、学歴を調べた。出身地分布は、中部83.5%(総人口に占める割合は41.3%)、南部8.3%(人口12.9%)、東北5.1%(人口32.3%)、北部1.8%(人口13.5%)であることが分かった。大きな不均衡が看取される。とりわけ首都2県出身者は41.9%(人口6.4%)を占めていた。また高等官子息は24.9%とほぼ4分の1を占めていた。 学歴の面では、(1)留学組、(2)国内高等教育組、(3)中等以下組に分けてみると、(1)は91名、(2)は130名であり、圧倒的多数は(3)であった。(1)のうち60%が首都出身、68%が高等官子息であり、(2)は51%が首都出身、36%が高等官子息であった。とくにエリートコースに乗った欧米留学組に限ってみると、首都出身者79.7%、高等官子息79.7%であった。高等官は男性人口の0.2%にも満たなかった。ここから、全体として中部、とりわけ首都の出身者が多く、地位が高くなるほど首都出身者と高等官子息の割合が高いことが分かる。しかも地位の高いものほど首都出身者が多かった。 東北や北部が20世紀に入ってから首都の支配下に取り込まれたことを想起するなら、総人口の半分近くを占めるこれらの周辺地域住民にはまだ国民意識が生まれていなかったといえる。1940年のタイでは、官僚制はまだ国民化しておらず、国民形成も終わっていなかったのである。
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