本年度は興亜論の社会基盤を明らかにするため、植木技盛の対外論を調べた。かれの対外論は従来「無上政法論」での万国共議政府による小国主義と見なされてきたが、調べてみるとそれは歴史的に変化していることが明らかになった。 彼の対外論は、1882年の壬午事変期を境としてその前後で大きく変化している。前期では国家価値よりは個人の生命価値を重視し、戦争をさけるため小国主義的とみまごうばかりの内治優先主義である。かれはアジア侵略のヨーロッパを野蛮視するがアジアも未開とみなし、アジアの専制政府の連帯による興亜論=体制的興亜論は現実性、普遍性がないと否定的である。 ところが壬午事変により清国の強大な海軍力の出現に直面すると、清国への不信警戒感を持ち始め、個人の生命価値よりも国家価値を重視し海軍力の拡充を主張するように変化する。そして報国に燃えた尊王攘夷運動の志士を再評価し、国家の担い手として「愛国自由主義者」の出現を期待した。明治17年8月の尚武精神、武力の養成機関としての有一館設立にかかわった意図はここにあったと思われる。もっともこのような国家価値に殉ずる精神主義を強調する要因には民権運動停滞の回復策も込められていた。かくして植木の対外論は、対清不信警戒をきっかけに理想主義から現実的となり、内治優先主義から開明化した日本の愛国志士指導のもとでの自由主義によるアジア改革論になった。これはアジアの体制変革的興亜論(明治22年「今日の19世紀は青年の為の18世紀なり」)である。かれはこの論説執筆の2年後に没した。 興亜論の社会基盤のひとつの層は自由民権論者であるが、民権左派の植木技盛もその例外ではなかった。かれは、興亜論から脱亜論に変わる福沢とは異なる変化をしていた。
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