(1)研究の目的は、明治前期のアジア主義の思想と行動の歴史的研究、特に日清戦争によるアジア主義の変容の解明であった。その際、アジア主義を体制派と反体制派のふたつの類型に分け、体制派アジア主義者として興亜会・亜細亜協会の指導者渡辺洪基、反体制派アジア主義者として末廣鉄腸を分析する計画を立て、ふたつの類型の同一性と相違性の連関がアジア主義の思想と行動の構造の解明に繋がると予想した。 (2)反体制派アジア主義者として末廣の他に植木枝盛を取り上げた。かれは小国主義者でありアジア主義者ではない、というのが学界の通説である。私も平成11年度の研究経過報告書には、普遍主義者のかれにはアジア主義はないと書いた。しかし再考の結果、かれの対外論にはアジア主義があり、それは朝鮮への軍事介入・侵出に反対し中国との軍事衝突に反対し、通商貿易をとおしての朝鮮中国の改革を図り、改革アジアとの提携による欧米へ対抗である。これは興亜会のなかにあるアジア主義のひとつであるが、そのアジア主義を否定的媒介にして無上政法論(万国共議政府論)すなわち小国主義を説いていることが分った。かれの対外論は小国主義と経済権益の膨張を志向する経済的国権拡張論の「混在」というのが現在の結論である。今後の課題は「混在」の構造の解明である。 (3)末廣鉄腸のアジア主義は、「国会」新聞の論説を分析の結果、明治18年の対中国非戦論から20年代前半には開戦支持に変容しているのが判明した。なぜこの時期に変容したのか、その要因と論理の解明は今後の課題である。それは対外硬派集団の思想、行動の解明にもつながってくると思われる。 (4)渡辺洪基と末廣鉄腸の両者のアジア主義の共通性は、通商貿易をとおしての中国朝鮮の改革と提携および日本の朝鮮中国への加害性の自覚にある。 (5)今後の課題は、このような経済関係を手段とする対等志向のアジア主義を初期アジア主義と規定し、日清戦争期以降の軍事関係を伴う日本盟主志向のアジア主義と区別して、1945年に至るアジア主義史のなかに位置付けてみたいと考えている。その過程で上に述べた残された問題も解明したい。
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